第四回 姥柳町
「京都坊目誌」によれば町名起源、不詳、布袋山町と言ふ。慶長以来毎年、祇園會に布袋の像を安せる山棚を出す。 像は支那の梁の高僧・布袋師、名は契此(かいし)、長汀子(ちゃうていし)と號す。明州泰北県(みんしゅうほうほくけん)の人(浙江省北東寧波にんぽう)。古くから遣唐使以来の対日貿易港として榮えた地。今の本尊は支那伝来の白青瓷に金銀青丹を施した洵(まこと)に優れた磁器であり高さ五寸の座像左右に唐子童子あり古来天魔厄神を除き寿福を増して子孫を繁栄せしめるものとして信仰されている。
因云(よりていわく)祭日七月十七日、二十四日とす、蛸薬師通を区域とし。同通以南松原に至るを十七日(先祭)とし、同通以北を二十四日(後祭)とす。共に氏子名町は名家の筆による屏風を陳列往来の人を観覧せしむ、其の装飾極て美を競ふ、都下一の大盛況とす。この記録をもっていかに姥柳町が京都祇園會の一大中心地であった事が、推察されよう。 布袋山は大津祭、岐阜高山祭、小浜放生会、弘前ねぷた祭等全国に多くの影響を及ぼした。懸装品見送、布袋「唐子喜遊図」は川島甚兵衛「名品図譜」に所収・所蔵されている。明代綴織、ZZ組織とする超極上優品であり、このタペストリーの復元製作の日が訪れることを期待される。
オルガティーノ、フロイスが中心となって信長の庇護のもとに建設されたもので1575(天正三)年に着工、1576(天正四)年献堂式をおこなっている。狩野元秀がえがいた「京名勝図」扇面図によって会堂の構造や庇護の一端をしのぶことが出来る。珊太満利亜(さんたまりあ)上人の寺とも呼ばれ京都におけるキリスト教と南蛮文化の中心となった。
このことにより この周辺の町家の生活と文化 美意識が広く深くなり山鉾町に渡来懸装品が多く輸入されることとなる。天正十五年(1587)九州征伐を終えた秀吉は宣教師追放故令を発し、キリスト教弾圧に転じ、南蛮寺もこのときに破壊され、ついにこの地には復興されなかった。
朱印船貿易史権威 川島元次郎名著「南国史話」─銭五の密貿易船の行方を尋ねて─(川島義明蔵)考え合わせ十六世紀「イーリアス」図タペストリー五枚 渡来の謎について考察すればまことに歴史とロマンに満ちた町である。最近北国新聞記事、十六世紀の南蛮寺二一世紀の金沢城共通する「建築家 高山右近」時空を越えた二つの建物がよく似ている。金沢城の「三階建」「入母屋」「黒隔柱」と唯一共通するデザインと雰囲気を京都の南蛮寺にみることが出来る。右近の巨大な遺産であると紹介されている。
元明倫小教頭松本利治先生(昭27・4~33・3在籍)大著、「京都町名変遷史」には姥柳町は我国における西欧文化の中心であり京洛における先端的な存在であった。明治~大正元年、室町の大家吉田忠三郎家(吉忠㈱)、藤井善七家(丸池藤井㈱)、大店成宮喜兵衛商店、伊藤産業㈱(松坂屋)等が存在していた事が記されている。
昭和40年代よりビル化に変貌その跡地にはテナントビル、和装呉服商社 駐車場等になっている。来年(平成16年度)七月には一時中断(七年間)していた飾山が新築マンション業者の御好意と援助により復興出来る事になった。この支援に対して甘受することなく 山鉾町として又、三十三基めの平成の山として再興することを待望するものであります。 |